不要な思考から“面白い”は生まれる

更新日:11月12日


 実家の庭にいつのまにか狸の親分(大)が増えていた。齢(よわい)80を過ぎた母は口を開けば「終活」と言う割に、まだこんな買い物ができてしまうのだから、生に対する意欲は大したものである。


 この狸さん、蕎麦屋などではよく見かけるが、一般家庭の庭にわざわざ買って置かれているというのは、そうなかなか見当たらない。まぁ、このかわいらしい姿を見れば、誰も悪い気がしないだろう。縁起物だと言われているから老夫婦の(見)守り神として「どうぞよろしく!」と心の中でお願いした。


 思い返せば、私が子どものころから、実家にはいろいろな「よくわからない置物」があった。記憶に残っているものでいうとまずは『フランス人形』。ゴージャスなドレスを身にまとった女の子の人形である。少女漫画風に描かれていた瞳は青色に着色されていたので、彼女はその名の通りフランス人だろう。背丈は50センチ程度もあり、円筒のクリアケースに入っているので、当時、とても豪華に見えた。夜、私が寝床に入ると、足元にある洋服ダンスの上にいる彼女と必ず目が合った。ちょうど、池田理代子さんの漫画『ベルサイユのばら』が女子たちの注目を浴びているころだったので、私はこのマドモアゼルを通してゴシックな世界を夢想し、「いつかベルサイユ宮殿に行ってみたい」と思ったものだ。(そして、その夢は10年後に実現するのだが…)


 つぎに思い出す不思議な置物は鳥の剥製である。これもフランス人形に負けない大きさで、ガラスケースに入っていた。木の枝に威風堂々と立つ鳥の前に木製の名前札があり『錦鶏鳥』と書かれてあり、実家の和室のこじんまりとした床の間の中央に置かれていた。ちなみに、この鳥が我が家へやってきた時のことは鮮明に覚えている。まだ私が小学生だったころ、師走の日曜日。年末年始の買い物は人出が多いからと、子どもたちは家で留守番をさせられ、両親が買い出しに行った。帰ってくると、日用品や食料品、、、の最後に、父が抱えて持ってきたのがこの金鶏鳥である。「なぜ?」「なぜ?ウチに鳥?」と疑問に思いながらも、美しい羽色がどうなっているのか不思議で、その日はずっと鳥の前に座って、この鳥さんを観察したことを記憶している。


 ほかにも、実家にはいろいろな不思議な置物がある。ネジを回すと首が回る女の子や腰を振るサンタのオルゴール人形。玄関で来客を待つ陶器でできた男の子…などなど。それぞれが置かれることによる統一感は皆無で、洋風なものから和風まで、ごついものからかわいらしいものまで…思いのままに買い集めた、としか言いようのない不思議な物たち。

 のちに私が独立し、自分の家を持つようになると、「なぜ、アレをわざわざ買ってまでして家に置いて飾るんだろう…」という疑問は薄らぐどころか、ますます謎を深めるのであるが、今になってもたぬきの置物を買ってしまうのだから、これは単に個人の趣味としか言いようがない。


 私がことのほか、「むだなもの」「むだなこと」に対して関心をもってしまうのは、不思議なものたちに囲まれて育ってきたからなのだろうか。世の中の合理的な物事の考え方にまったく関心がなく、逆に非合理的で無駄なものにエネルギーを注ぎたくなる性分は、

 「そこに置かれて、何の意味があるのか?」

 という答えのない問いに、子どものころから向き合ってきたからなのだろうか。

 

 とにもかくにも、この物たちはいずれ私が処分するわけで、その時、私は罪悪感と戦わなくてはならないことを覚悟している。

 ここのところ、我が家の固定電話にかかってくるのは「不要な物、どんなものでも買い取ります!」というリサイクルショップの買い取りのセールスだ。こんな私の事情を知っているのか?たぶん、電話の権利主の世代から割り出しているのだろうけれど、これらの珍品たちを無感情で処分するのは難しい。そんな面倒なことを親は知ってか知らずか、今ものほほーんと、新たな不要物を買い込んでくるかもしれないと思うと気が重い。

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